伊良子清白(1877−1946)漂泊

漂泊


蓆戸(むしろど)に
秋風吹いて
河添(かはぞひ)の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ
亡母(なきはは)は
處女(おとめ)と成りて
白き額月(ぬかつき)に現はれ
亡父(なきちち)は
童子(わらは)と成りて
圓(まろ)き肩銀河を渡る
柳洩る
夜の河白く
河越えて煙の小野に
かすかなる笛の音ありて
旅人の胸に觸れたり
故郷(ふるさと)の
谷間の歌は
續きつゝ斷えつゝ哀し
大空の返響(こだま)の音と
地の底のうめきの声と
交はりて調(しらべ)は深し
旅人に
母はやどりぬ
若人(わかびと)に
父は降れり
小野の笛煙の中に
かすかなる節は残れり
旅人は
歌ひ續けぬ
嬰子(みどりご)の昔にかへり
微笑みて歌ひつゝあり


『孔雀船』1906年佐久良書房
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