ダイアログミーティングより

伊達市で2月25、26日に行われたICRP主催のダイアログミーティングには、福島のエートスという名前で活動中のメンバーが数多く参加していました。

メインの安東さんと一緒に参加された京都女子大の水野先生のおふたりは、ミーティング外でもICRP側のメインだったロシャールさんと会話を交わされてきて、そエピソードをツイートしてくださいました。
(ロシャールさんは、1996年からチェルノブイリの汚染地帯の農村で、住民たちの放射線防護のための活動を長らくされています(ETHOSというプロジェクトです) )


ロシャールさんとの会話
安東さんと水野先生のツイートより抜粋

安東さんのツイート

ロシャールさんとの話で、オルマニー近隣の林業について聞いたら、30km圏外では、山林は、ほとんど放棄されていない。林業は続けられている。但し、職業被曝が最も大きくなるので、必ず個人線量計を持ち、マスクをするなど、被曝対策はきちんと行っているとのこと。オルマニーのあたりでも、山林と親しみながら暮らすのは、日本と同じ。人々は、森でピクニックをするのが大好き。木材は、汚染が外縁部に大きいので、周縁のみを除外して、汚染がないか、低いレベルのものだけ、使っているとのこと。これも、食料などと同じ。適切に管理しながら、使っているようだ。


ロシャールさんに、ベラルーシの写真を沢山見せてもらった。30kmの境界のすぐ側で、楽しそうに暮らしている人がいる。川で遊ぶ子供がいる。森でピクニックする人がいる。きっと、もし、あなたが故郷を愛して、そこで暮らし続けたいと思うなら、あきらめるな、と、写真の笑顔は言っていた気がする。
我々を救えるのは、我々自身しかいないのだと、しかし、それに力を貸してくれる人は、たくさんいるのだと、現実に対処する戦略は、現実の中からこそ見出すことが可能なのであると。きっと、そんなはなし。

気持ちの話をするのは、最後のところは、気持ちひとつなのだと知っているから。どのようなシステムも技術を知識を駆使したとしても、届かない場所がある。そこで、つなぐことを可能とするものは、気持ちだけ。そうして、繋がれている、あるいは途切れてしまう、いのちの在り方を、知っているから。

ロシャールさんに聞いた、エートス初期の出だしは、本当に手づくりだった。最初は、ただ、住民と会話していた。「だけど、あなた達、どうせ戻ってこないんでしょ?」また来ると言うのを信じない住民に対して、家を借りることにした。田舎だったので、借りられる家を探すのにとても苦労した。

ある時、住民が「あなた達も、家族を連れてきて、ここで暮らしてみろ」と言った。それに対して、ロシャールさん達のグループは、1人ずつ答えた。それぞれの家庭の事情、仕事の都合を説明して、ここでずっと暮らすのは無理、と答えた。住民は、納得して、満足した。そして、もし、あなた達が、ここで暮らす、と答えたら、逆に信用しなかったろう、と言った。
住民が、数値を信用できない、と言ったときに、彼らが、信用していないのは、数値ではない。それを測っている人間のことを信用できない、と言っているのだ。住民に対して、口にしたことは、必ず、実行しなくてはならない。もし、実行できないのなら、絶対に、口にしてはならない。never、と強い口調だった。

映像で見た、若いお母さんのその後の写真を見た。映像の中で、子供の内部被曝がとても大きくて、不安そうな顔をしていた母親。少し年をとった彼女は、大きくなった子供と一緒に、写真の中で、笑っていた。お子さんは、もちろん、とても元気。

ベラルーシでは、住民が、普通のおばちゃんが計測担当をしている。仕事の他に。そういう地域住民達が集まって、たぶん、定期的に会議する。出てきたデータを見て、どうするか、話し合ったりして、自分達で考えていって、必要な時には、専門家の助言をもらう。

悲しい話も聞いた。そういう計測に関わっているひとりのおばさん、仕事はきちんとしているのに、どこか距離を置いた雰囲気で、なぜ、そんな雰囲気なのに、計測に関わったりするのだろう、とロシャールさんは、内心不思議に思っていたそう。ある時、森でみんなでピクニックしていた時のこと。彼女の旦那さんが一緒に来ていた。お仕事は何?と尋ねると、バスの運転手、と。事故の時は?と聞いたら、その時も運転手をしていて、強制避難区域から住民や家畜を避難させるために、何度も避難区域と行ったり来たりしていたそう。息子さんがいて、息子さんも運転手だったそう。やはり同じように、事故の時に避難させるために何度も強制避難区域と出たり入ったりしていた。今、息子さんは?と尋ねると、亡くなった、と。事故から10年後。原因は心臓病。母親である彼女は、それを放射能のせいだと思っていた。ロシャールさんは、Maybe not. それは違うと思うよ、と言った。彼女は、Only God knows. とだけ答えた。今でも、息子さんのしたことは、誇りに思っているけれど。その時、ロシャールさんは、彼女がなぜ距離を置いたような態度で計測に関わるのか、理解した、と言っていた。その女性の写真を見せてもらいながら、その話を聞いた。ご主人の写真も見た。どこか翳りがあるような女性と、気のよさそうなご主人の。私は、その話を聞きながら、今の福島を思った。

ロシャールさんの話でいい話だな、と思ったエピソードをひとつ。住民との信頼関係を構築しようと苦労していた時期、一緒にベラルーシに行った仲間の中に、写真がとても上手な人がいた。彼の撮ったその村の写真を(どこだったかは聞き取れなかった)壁いっぱいに展示することにした。その場所に15歳くらいの女の子が入って来て、すぐに出て行ってしまった。そのあと、しばらくしてから彼女は友人を連れて戻ってきた。そして、私たちの村はこんなに美しいのね、と、そういう話を友人としていた、というそういう話。


何のために数値を計測するのか。ただデータを取るだけで満足してはいけない。WBCでも何でも、目に見える形で住民の生活改善に繋げていかなくてはならない。個別に高い数値を示した人に接触して、話をして、原因を探し、その改善方法を一緒に考えていく必要がある。専門家は最初にベクレルやシーベルトの説明をしようとする。けれど、現地のおばあちゃんにとっていちばん大切なのは、「孫が遊びに来てくれなくなった」ということ。一番最初になんとかしなくちゃいけないのは、この事。住民と話をして、何が住民にとって一番重要な問題なのかを知らなくてはいけない。
最初は、ロシャールさんもコテコテの科学的説明をしようとしていた時期があって、最初はフレンドリーだった住民が、会場でどんどん顔が強張っていった。その事に気づいた同僚の心理学者がストップをかけてくれたんだって。失敗から得た教訓なんだね。


論文に出てくる「サナトリウム」の写真も見せてもらった。比喩的な療養地ではなく、建物として存在する。汚染地域の子どもたちは、そこに集められて、過ごす事になっていたよう。確かに、これは、あまり楽しいとは言えないかも知れない、と思った。外見はきれいな建物ではあったけれど。


地元の人と話をするとき、事故の時はどうしてた?と必ず尋ねているそう。若い男性と話をしていたとき。事故の時、彼はまだ子どもだった。事故から数日後、村の子どもたちは、みんな別の場所に避難させられた。親とも互いに連絡がとれないような状態で数ヶ月過ごす事になった。
彼には、親から離れて暮らす経験はその時が初めてで、本当につらくて悲しい時間だったという。数ヶ月経って、家に帰れる事になった。バスの降り口で親たちがみんな並んで待っている。彼は、バスから降りて、母親に言った。"The air is pure !" 母親はそれに対して答えた。 "No, the air is not pure. The air is fresh." この違い、この感覚が、まさに汚染地域の感覚なのだ、とロシャールさんは言った。私は、それが、すごく、よくわかる。

ベラルーシエートス情報センターで驚いたのは、村の人のWBC測定値が名前入りで一覧掲示してある事。個人情報とかは拘らない土地柄で、むしろ、公開する事の方が好まれるらしいけれど、その数値を見て、村の人達が話をするわけです。
この人が、高いのは、ほら、これが理由だよ、あのとき、ほら、これこれこーゆーもの食べていたじゃない、こーしていたじゃない、って。それで原因も特定できるし、対策もうてるし、問題意識も共有できる。村だからこそできる、合理的なやり方、と思った。

だけど、ロシャールさんがあんまり楽しそうにベラルーシの経験を話すから、こんな風に話せるようになったら、あなたたちも乗り越えられたって事になるんだよ、って言うから、私、途中で1回泣いちゃったんです。まだ、たった一年ですよ。ほんの一年前までほんとに普通に暮らしていたんですよ、って。
そうしたら、ロシャールさん、じっとこっちを見て、わかる、とてもよくわかるけれど、だけど、闘わなくちゃいけないんだ、強くならなくちゃいけないんだ、あなたにはできるから、って言ったの。状況はとてもとても困難なのはわかる、だけど、闘わなくちゃいけないって。
だから、わたしは、引きこもり業を、しばらく休業する事に決めました。

ロシャールさんは、私たちが何を失ったのか、そのことをとてもよくわかってくれていたから。置かれた状況が、どれだけ困難なのか、よくわかってくれていたから。それでも、闘わなくちゃいけないんだ、っていうから。そこにしか、道はないのだな、と。






水野先生のツイートより
http://togetter.com/li/265820

ベラルーシの人達は食べること、飲むこと、話すことが大好きだ。ETHOSプロジェクトの初め、どこにするか探した。話しを聞いた。都会でもそれ以外でも。ある時、ある村で話を聞くと、入れ入れと招き入れられ、食事をふるまってくれた。だからそこでやることにした(笑)。それがオルマニー村。
フランス人の英語を聞きながら、オルマニー村を(うろ覚えで)そういえばホルマニー村だったっけ?と思って聞いていたり、はたまたunder controleとフランス人みたいな綴り間違いになったり(笑)。混乱する(苦笑)。英語にはラテン語起源(フランス語系)の言葉も多いので仕方ない。日本でお茶を出すようなもの。ベラルーシの村ではそれが食事。だからロシャールさん達は1日に五回も六回も食事をすることになった(笑)。その食事の写真がたくさん記録されている。フランスの食べながら飲みながらという文化とも合ったのかも知れない。そういう交流のなかで話しを聞く。

ロシャールさんと話していて、途中から外国語を聞いているという感覚がなくなるのが不思議である。チェルノブイリでのECによるETHOSプロジェクトの経験。おそらく、それが人間の、まぎれもなく普通の人間の言葉だから、問題を解決しようとする普通の科学者、研究者の言葉だから、なのかと思う。最初のミッション訪問は1996年6月のこと。色々な人から話を聞き、こう助言した。三ヶ月に一度来るので、次回までに食材を記録をと。しかし9月は多忙で10月になった。来て聞いた。誰か記録は?一人だけいた。だが9月の途中まで。なぜ?と聞いた。待っていたが来なかったから。
チェルノから十年。国家崩壊に向かい、情報ゼロ、流通生産管理なし。日本ではない。1991年12月国家崩壊。経済は極端に悪化。その間、村に来た研究者達は質問をし、写真を撮り、帰っていく。また来ると言うが二度と来ない。私達はモルモットか。それと同じだと思った。だからロシャールさん達は学ぶ。村人は、ある人達は危険だと言い、別の人達は大丈夫と言う。私達は何を信じていいか分からない。(勿論PCなど村に一台もない。)村人達にやると言ったことは絶対にやるべしと。そこで村に家を借りることにした。3年契約。

ある家で話を聞き、測ると子供が高い。乳牛は隣人と同じ牧草地。たがよく聞くと、実は別に干し草も毎朝。あは〜それかも!と測定、原因判明。市役所は統計を取るがそれ以上しない。だがそうやって下げられる。住民が自ら取り組む。under controleと何度も指摘するロシャールさん。
ETHOSプロジェクト当初は1996年、チェルノ後10年、都会は除染済み。だがオルマリー村のようなところは放置されていたようだ。その頃、まだ経済状態が悪く、村のレストランで何も出せないと言われたことも。普通の村は1軒平均乳牛2頭、だがオルマリー村の平均は1頭。そんな中での出来事。


ある時、学校の先生の女性が測ってみたいと言う。そこで家の中、庭等を色々測定。室内は非常に低い。ここは大丈夫と理解した。それを家のおばあちゃんが遠巻きに腕組みして見ていた。説明した。そんなはずはない。ひどい事故だという。やっと理解した。「じゃあ息子が帰ってくる」と明るい顔で言った。数ヶ月後、その女性に出会った。ココアをご馳走したいから家に上がれという。忙しかったロシャールさんは「後で」と言うと、非常に落胆した顔をする。どうしてがっかりしたのと聞くと、あなたに牛乳で作ったココアをご馳走したかった。30Bq/Lになったから。以前は800Bq/Lだったのに。その女性、学校の先生だったので、ある時、はたと思いついた。牧草が何Bq/kg、移行係数がどれだけ、だったら牛乳は何Bq/Lになる?という問題を子供たちに出そう。小学校の先生で、ちょうど掛け算の学年。それをロシャールさんに伝え、その後、次々に問題作成。それが主体的。

測定が増えると高い場所が分かってくる。でも一概に禁止でなく、例えばここからここはこの程度の空間線量率、ならば通過して遊び場へ行くのに、子供の駆け足で何十秒、するとその間の被曝は何μSvと計算してみる。子供たちに計算させる。それが(外部被曝の)under controlということ。
その学校の先生は子供達を牧草に連れ出して測定、牛乳も測定。さて実際はどうか。大抵その通りにならない。そこから誤差を認識し原因を考えるという段階に進む。実際、移行係数は非常に誤差が大きいことが知られる。単純ではない。しかし移行係数には傾向も工夫の余地もある。これが放射線防護の文化。


ロシャールさんと話していると、このような例が次々に出てくる。20年も苦労されたのだから当然かもしれない。最初に放射線防護の調査目的でチェルノブイリに入ったのは1990年(ETHOSが1996年から)。この話を出版したら?差し向けると、いや〜、それは日本のあなた達が創り出すことと。

ある時、その女性はふとこう言った。The thaw has begun.(雪解けが始まった。)この言葉の奥には、長い長い、氷に閉ざされた時間があったに違いない。その氷が解け始めたと、感じられるようになった。それは科学の言葉ではない。しかし人間の実感としての言葉であり、詩である。

新幹線の中でもこの話をしてくれた。"The thaw has begun." 詩としての言葉。だが、ここからは私も分からない。ロシャールさんは、日本人は詩が得意だとおっしゃる、俳句があるだろうと。どうなのか^^; 少なくとも、「一般の人」が語れる言葉が必要であることは確か。

つまり「放射線」はなまじっか専門用語が多かったために、「科学の言葉」しかなかった。α線β線γ線。しかし、それは残念ながら人間の言葉ではないだろう(自分でいうのもはばかられるのだが)。日常用語でないことは確か(残念ながら^^)。詩とはそういう意味だ。普通の人間の言葉で語る言葉。

勿論「科学」は重要だとロシャールさんも当然ながら言う。科学は解決方法を提案する。だが最初からそれを言っても、人々に届かない。(それは多分最後に出てくる。私は逆転させると感じた。)これを彼はhuman dimensionと呼ぶ。人間の次元。科学の次元と、人間の次元。その両方が必要。

そしてロシャールさんは政治哲学者アーレントの言葉を教えてくれた。「科学者が原爆の原理を発見したことは責められない。原爆が政治的に使われたことに科学者が無力であったことも責められない。だが科学者は、人々が語る言葉を作り出してこなかったことは責められる…」これを彼は詩と呼ぶのだろう。

前ツイで紹介したハンナ・アーレントの言葉(の筈のもの)、まだ出典を確認してなくて、うろ覚えで書いてます。正確な言葉は後日、紹介したいと思います。@ando_ryokoさんによれば、アーレント『人間の条件』の冒頭に出てくる。私の誤解があれば困るなぁ。でもそういった意味だったはず。

ロシャールさんから学んだことはまだまだ多い。だが難しいことも確かかもしれない。今後の課題の一つであることは確か。フランスで福島のニュースを知ったとき、これから何が起こるか、私には絵のように想像できた。そして涙が出たとおっしゃっておられたことも印象的。現代社会の問題の一つになった。

安東さんのレス
"…だから、科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しないほうが賢明であろう。しかしそれは彼らの「性格」の欠如ー彼らは原子兵器の開発を拒否しなかったーや彼らの素朴さー彼らはこのような兵器がいったん開発されてしまえば、あとはその使い道については…""…なにも相談を受けないようになるということに気がつかなかったーためではない。科学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである。" "人びとが行い、知り、経験するものはなんであれ、それについて語られる限りにおいて有意味である。たしかに言論を超えた真理も存在しよう。そしてそれらの真理は、単数者として存在する人、いいかえると、他の点はともかく少なくとも政治的存在ではない人にとっては、…""…大いに重要であろう。しかし、この世界に住み、活動する多数者としての人間が、経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけるからにほかならないのである。" ハンナ・アレント『人間の条件』プロローグより この引用部の前に "科学によって作り出された状況は大きな政治的意味をもっている。言論(スピーチ)の問題が関わっている場合にはいつでも、問題は本性上、政治的なものとなるからである。というのも言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。"という記述があります。

水野先生
@ando_ryoko なるほど。ご紹介、ありがとうございました。