現代詩フォーラム跳梁氏強制退会事件

むしろ原口氏による波紋 というべきですね。彼の勇気と努力に賞賛を送ります。

私の立場は跳梁氏(ぽげ氏)に近い場所にいて見ていた傍観者である、と同時に白井氏のマイミクでもあることで、白井氏の私的な日記内で展開された議論を当初から見ていたというあたりです。
あくまで、個人の視点であって、跳梁氏の代弁でもなんでもないことを最初に確認しておきます。

1、12月時点でのみさとさんへの批判について
自分にとってみさとさんの問題は、単純に「もう書くな」という方向へ叩きが進展したことがタブーと感じたのみで、叩きそのものは表現の自由として、ある程度ありだと考えていました。いったん人前に”表現”として出したものは、一人歩きします。ましてや詩の切磋琢磨の場であるのだから、忌憚ない意見を聞くことはなににもまして作者の糧であると考えていいかと思います、私たちはみな、詩の作者であると同時に、徒弟でしかないのですから。

2、跳梁者氏の「馬鹿はすっこんどれ」発言に関しての見解
これは白井氏のミクシ日記に書いたとおりの判断です。
>佐々さん
>今回の件だけで考えますとね、もともとはみさとさんの事件から始まってたと思うんですよ。
>つまり、知る人は結構多いと思いますが、今回の「馬鹿」のターゲットはあの時にみさとさん叩きをなさってた方ですね、彼は、あの時非常に怒っていたんですよ。みさとさんの詩に対しての批評が云々という意味ではなくて、その叩きの中でみさとさんに対して「もう書くな」という発言があったためです。
>彼の本来のスタンスは
>「私は君の意見に反対だ。しかし、君が反対意見を言う権利は死んでも守る」ヴォルテール
>ということではないかと思います。
>つまり、今回の自爆テロは、「俺のやってることと、あなたたちのやってたことは本質的に一緒だよ」という示威であったとあたしは解釈していました。

>極端な形であるので、彼の行為は問答無用にサイトからの排除という結果を招いていますが、
>個人的にはやはりここで、ワンクッション欲しかったかなと感じます。
>ただし、白井氏の見解とは異なり、跳梁者氏の行為そのものも、やはり掟破りであったと考えています。表現の自由の侵害に間違いはない。(とはいえ、彼の意図は そのあたりは理解しつつ、あえて、あてつけとして書いたのだろうと推測していました。)




3、白井氏のミクシで展開しかけていた、”詩の発表の場でのタブーについて”
この論点は頓挫していましたが、いったいどこまで他人の作品について踏み込んでいけるか?という問いに発展していったことと思われます。 現実問題、本当に忌憚のない意見を言えるというのは実は稀なことで、それはベースにお互いへの信頼が不可欠です。つまり、①互いに忌憚のない意見を望んでいること、②忌憚のない批判であっても決してつぶれることのない強さを各人が確立していること、③詩の方向性について多様な指針がありうることを共通理解としてもっていること。  あたりが最低必要なベースではないかと考えます。 このベースがない状態での忌憚ない意見はややもすれば”排除” あるいは、”個人攻撃”という形で終わってしまう。それでは発展への道が閉ざされると同時に、場がいたづらに閉塞、固定化してしまうのではないでしょうか。
私自身は、ご存知のとおり、悪名高い2chをメインの場にしています。ですからどちらかといえば誹謗中傷に免疫があるのかもしれません。「叩き上等」が本音のスタンスです。 その上での線引きは 上に述べたように
”お前はきらいだが、お前が表現する自由は絶対に守る”という立場です。ある意味、極北の立場かもしれません。

4、人間と作品
少し長くなりますが、寺田透氏の ”現代詩におけるなからうか”を引用させてください。
http://d.hatena.ne.jp/leaf_parsley/searchdiary?word=%2a%5b%bb%ed%cf%c0%5d

現代の詩とは、 心情吐露としての装置 と 芸術としての詩 の二つの側面をもっているのではと考えます。どちらの面も現代人にとって必要な要素になってきているのです。問題になったみさと氏の詩は、個人的にはポエジーではなく人間が立ち上がるタイプの詩だと読んでいました。作者にとって必要な表現なのだろうと。と同時に、その人間のバイタリティに心打たれる作品群でもあるかもしれません。
フォーラムの詩もまた両者の傾向をもち、ややもすれば前者に傾いている作品も多いです。 思想(人間) と 詩の芸術性は複合的に判断すべき要素で、たとえば、思想的に秀逸であったとしても詩表現では駄作と思われるもの、 芸術性は高く感じられるが書いてある中身は小学生レベル というものもあります。 今回原口氏が丁寧にまとめてくださった批判は両者の立場が渾然となった状態で現れているように感じます。表現と作者そのもの、そして読者もが混在している。(まあそれだけ、人間そのままを書き上げている作品が多いということでもあります)
単純に言ってしまえば、りんごの嫌いな人がいたとして「あたしはりんごが嫌い」だと発表する。それに対してりんごの好きな人が「それは残念だ、こんなにおいしいのに、ぜひ食べてくれ」というのはOK、「りんご嫌いがいるとあたしが嫌だからそんなことは書くな」というのはりんご嫌いな人への横暴になるわけです。人間は千差万別で、人の思いも千差万別です。  
ただ、ここには修辞的な問題もからんできて、別にりんごが嫌いでもなんでもない人が創作上の操作として「あたしはりんご嫌いだ」ということを書いたとする、それは作品が必要とする仕掛けであったとすれば本人の思想性の問題ではなく、表現手法の問題として読まれるべきなわけです。そんなときに「おまえ、りんご嫌いなのかよーーばーっか」という評は的をはずします。 「作者はこの話者をりんご嫌いと設定しているが云々」という評が期待される。 
まことに作品を読むというのは胃の痛いことであります。