寺田透 評論集

「近代日本のことばと詩」より 現代詩について抜粋

現代詩は絶対的な規範を持ちません。それは詩人それぞれの生活を基盤として書かれており、よそから見れば個人的主観的なことの客体化をめざしている。 ただそのときの書く主体が、さっきも言ったように、生身の人間ではなくなって いるのが問題です。
したがって、その扱うものも、歌ったり、嘆いたりできる実体とはちがった、 触感性のない、しかし現実性はあるものということになります。 そして、この現実性も一般性とか、普遍性とかとは相容れないものです。 それで、それがどういうことかは、読者の言葉に直しては言えないことであり、作者にも違う言葉でもう一回言う可能性はないのかもしれません。 当然、そういう立脚点をもつ詩は受け取る側の詩の理想や趣味とは無関係に書かれます。しかし読者には読者の存在理由があるのであり、かれらがどういう詩をいいと思うかを無視はできません。
たとえば、絵の場合ですと、抽象画でも非具象でも、というよりそういう作品ならばなおのこと充実が全体にゆきわたっていると感ぜられるとき、どこにも無力さの証拠 である欠落や空白がないとき、初めてわれわれに良い作品と思われるのです。 それ以外によいといえる基準はないようでさへあります。 詩の場合ですと、一つの行と次の行との間に意識の進み方がなだらかに行っていないとき、意識の欠落があるとき、その間に合わないリズムがあるとき、われわれは急に足元を さらはれたようになり、水っぽい感じを受けます。人為的、恣意的なものではないかという疑いを抱きます。詩が詩の素材をとらえそこね、その世界を生きていないと感じるわけです、それは魔術性が弱いということでしょうが、非力な証拠であるともいえるでしょう。詩が良いしとして読めるためには、意識の緊密性、快い持続がどうしても必要になってくるのではないでしょうか。