現代詩に関する”なかろうか” 寺田透

 わたしがこれから書くことは現代詩のすべて、現代詩人のすべてに当て嵌まることではないだらう。 しかし別にどうしても読まなきゃならないわけがあるのではなく現代詩を読むとき、大抵いつも感ぜられ、つひ印刷された紙の束を置いてしまふ原因のひとつに当たることの多いことだ。
 それは二通りに言ひ現はされるだらう。一方の言ひ方をとれば、もうわれわれは現代詩ーそれも比較的若い方のひとびとのをー読むことでは、詩を読む喜びを味わへなくなったのかしら、といふやうな感じである。大づかみな言ひかたをすると、詩を読む喜びのひとつは、いくらでも障涜なしに変調展開して行きさうな詩中のヴィジョンが、詩の音楽性と言ってもいいが、詩の内部にはたらき詩ひきずり追いたて旋回させ、波打たせまた飛び立たせる内面の動きによって、かへって引き止められ、むやみと増殖することも阻まれ、そのかはり輝きを増し、生命観をえて、みづみづしくなるのをまのあたりに見るという一種のディレヤレクチックにあると思うが、さういふ多元相互性が現代詩からは失われ、その多元性は詩中に盛られたヴィジョンや思考の多数性によって代置され、辛うじて単調でなくなっているとふ感じがある。つまり結局表面をにぎやかな多数性が覆っているが、実は貧寒な一本調子がその内部を貫いていやしないかといふことである。

 これはもう一通りの言ひ方をすると、詩人と言はれる若者たちが、いまや、調子のいい、調子づいた、したがってほとんど無限に恣意のゆるされる散文の一種を書くみたいな具合にその詩を書いているのではないという疑問形で言ひあらはされる。散文で書けばそれですむやうなこと、口頭で言ひまくればそれでいいやうなこと、それを、散文で書くのは、散文の性質上現実の物的秩序と論理の次序の要求に一応は従順に従ひ、その試験を経た上、あるひは受けつつでなければ書きおほせず、要するに体をなさないので、これを避け、また口頭で云ふには、相手が自分の存在を認めてくれるかどうかのそもそもの場面を組織するに必要な自信がなく、それに、自分もそれであるところの人間の声といふやつと自分の言はうとすることのあひだのみじめな不協和音が不安で、要するにどっちから見ても自己不信が拭へないために詩が表現形態として採用されたのぢゃなからうかと思われることがあまりにも多い。


 同じそのことは、詩を書くといふことが、近代社会のさまざまな職業と同じく、一通りの技術を覚えさへすれば、別に特別の型と素質の人間でないものにも容易に出来ると見做されて来たといふことでもあり、いくら職業は自由、詩は盛んとは言へやはり「詩人」にならふといふものは少数なので、少し辛抱づよく書きやめずにいればいまでは詩人扱ひしてもらへるといふことになったのぢゃないかといふ風にも言へる。現代何々詩人これこれ詩人といはれる人々にもさう呼ばれた詩人が昔から大勢いて、それぞれに絶唱と言へるやうなものを残しているのに、それらに負けない詩句を作る自信、作らねばならぬという義務感は、今、あるのかしら。それがないから、現代詩は現象的だ、現実と対抗しこれを凌駕する何者かを持たうとする意志によって饗化されていない、とふ感が起こることにもなるのではなからうか。
 イマージュとイデーをもっと煮詰めて、そこから多くのイマージュとイデーが読者の脳裏で湧き出しうるやうにエッセンス化さうとつとめ、詩は長いばかりが脳ぢゃないと思ふへきではなからうか。  また短いしを主として書く人のうちのある人々は、余り自分の感覚をいぢりまはして快を得ようとするオナニーやナルシシスムの 習癖を絶つべきではなからうか。

1960 9月 「文学界」14−3
寺田透評論集 近代日本のことばと詩 」より抜粋

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短かったんで全文記載。(もろ著作権侵害。。んだけど、この本あまりにも出回っていので、ちょっと掲載する価値があるかななんて。。)
 書かれたのは1960年で既に45年が経過しているんだけど、今読んでも「そうかも」て思ったりしますね。 とくに、”どっちから見ても自己不信が拭えないために、詩が表現形態として・・・・”の部分は耳が痛いは。。
まあ、今は詩っていうのはもしかして文芸作品としての舞台よりも、”個人のオナニー的発露 、逸脱あるいは 抑圧されてしまった自己の表現”としての舞台のほうが大きいかもしんないので、そういう意味合いでは この評論は「詩の価値を芸術性に置き過ぎている」と読めるだろうし、また、詩の芸術性に純粋に期待をしている人であるともいえます。
多分両方の価値を認めつつ、芸術性という点で優れたものを掬い取っていく作業が地道に必要なんだろうなあ。
書き手にとって見る目のある観客は必要なわけだろうから。同時に、詩の芸術としての存在価値を真正面から認めて その頂に挑む書き手も必要なんだろうと思います。 (相対化の時代を経てしまってるんで、その価値をつい 相対化しちゃうディレッタントなスタンスをとっちゃうんだよね。。。詩書く人ってセンスに敏感だもんだから。  まあ、振り子みたいにゆれながらでも頂を目指してほしいです。)