書簡0 (8月6日送信分、そもそもの最初)


フィクションですかあ

あたしなんかは、詩にいかにフィクションぽいリアルを埋め込むかに血道をあげていたりするんで、詩はフィクションじゃないぜなんていわれたらもう、あっさりお手あげですし、かといってどこからどこまでまっさらのフィクション=(つまり作者の経験とまったく抵触しない材料だけで組み上げたもの)で詩書けなんていわれても、やっぱお手上げです。 「夕日に涙する」とか「つきにわれを忘れる」とか実に定番な情緒ですら、直の経験なしにはやっぱ書き出せないなあという気がしちゃうんですよね。「説得力がない」と自分で思うと、なぜか、文字ものものからも力が抜けていってしまうという摩訶不思議な世界に入り込んでいます。。。 細部に神が宿るっていうんで、その些細な語尾なんかから、本音で書いてないのがにおいたつような、、はははは。まあ類似でいいんですけど、類似で。
電波ですな、この意見。。。

詩を読むときに作者に引きずられてしまうというのは、あたしの批評する場合の欠点のひとつで、ぽげさんあたりからよく「リーフさんは人で読みすぎる」と怒られてしまいます。とはいうものの、たとえば野口雨情の「シャボン玉」の歌を、彼の子供を亡くしたすぐに書かれた歌だと知る前と知る後では、相当見る目が変わってしまいます。もちろん知らなくてもいい歌なのに、知ったあとでは、哀しみの色合いを濃く感じてしまうわけです。 フィクションとリアルの関係ってのはこの辺りに強く作用する部分かもしれないなと思います。戦争体験のない20歳ぐらいの青年が書く反戦の詩にもし、戦で殺された兵士の無念なんかがあったとすると、理不尽にも「嘘くさい」と感じてしまい、逆に、戦争で10年も激戦区にいた詩人が帰ってきて書いた詩だったりすると、何を読んでも戦場体験に重ね合わせてしまったり。。。 言霊があるとするならば、なんとなく実体験にその根幹が潜んでいるような気がしてしまうんでしょうかねえ。 何書いてもいいんですが、、あ、もちろん、実録以外書くななんて意味じゃないですよ。幹になる部分の情感に本音が入るようにって意味です。


ああ、そんなことを言い出すと、戦争体験のある人に絶対勝てないって気がしちゃいますね、。つまり生と死のハザマを潜り抜けてきた人らなわけですから。なんつかもう、使えるレンジがあたしあたりの倍はあるような気がしちゃうんですよね、決してうらやましいわけじゃあないんですが、、そういえば、作家なんかを育成(?)するときに 作家は遊んでなんぼ っていうような論調があって、飲む打つ買うも芸の肥やしなんて、、ははは、なんとなく信憑性を感じちゃうとこが小市民なあたしです。

あたしは匿名のままで詩を書くことがすきなんですが、つまりそれは、個人の経験と突合せを読者が絶対にしない状況であるってことでもあります。 創作がひとつのイリュージョンであり作者の姿というものがそのイリュージョンを支える大きなファクターであるならば、赤裸々な姿をさらさないことでひとつの保険を確保しておきたいような気がしてしまうんですよ。ずるいですね、この態度。。作者の人生と詩作品を切り離すひとつの手段に物語形式があるような気がしています。 ある完結した世界そのものを書き出し、そこでの登場人物が動きだすことで、作品は作者の個人生活から切り離して成立が可能な気がします。読み手は、お約束として、彼らが独立した彼らであって、作者ではないことを受け入れ、彼らの破天荒な経験を破天荒なままに受け入れてくれます。 (劇もそうなんですよね。多分歌もそうなんですわ。仕掛けがあると違和感を超えることができるってことですかね)長い作品を書くのがすきなのはそういう点があって、つまり、構築された世界の中で、いかに本音な詩情が浮き上がるか ということになるのかな。