書簡 

抜けがたい「暗黙のお約束」みたいな壁があたしにはありまして、小説=フィクション上等  詩=リアリティ上等 的な部分つのかなあ、、演劇とか小説とかは作者が何かいてもすんなり入れるんですがこと詩だけはなぜか「本音で書いてる」って部分が気になっちまうんですよ。あ、もちろん、詩のなかで殺人しようと強姦しようとなんでもいいんですよ、だけれど、そこに”仕掛け”のない状態で出されると違和感があるってのかな、、偏見だって一刀両断にしてしまうにはどうも違うぞという違和感。 それは多分、詩がぎりぎりの表現体であることによるんじゃないかなっと思ってます。吟味された文字列を作り上げる上で、材料として、より純粋な素材を提供してきた先人のレベルを前提にしてる。血と汗を絞り込んできた作品が多く残ってきている中にフェイクは通用しないぜっていう感じですか。
で、その違和感をはずすために仕掛けがね。フィクションであるというのあ小説や演劇では仕掛ける必要のない前提条件ですが、詩だけに限ればなんらかの仕掛けがそれは、たった一言でいいんですが、必要な気がしています。作者のリアルだけで作品を書くのははっきりいって無理なんですよ、すぐ陳腐になっちゃう。魅せるということを意識する以上、フィクション性は必要だと思います。で、当然のことながらフィクションを書き始める。ではそこで、そのフィクションを魅力的にするには、というと、今度はリアリティが要求されるんじゃないかと思います。たとえば、90の戦争体験者の書ける悲惨さというのは、20の平和な青年の書ける悲惨さよりも細部においてリアリティがある可能性が高い、死体に15分で蛆がわき始めるとか、末期の舌がピンクにそまってとか、私たちが本でしか知ることのない知識を目で見て、手で触れ、においを嗅いできた記憶を持っているわけですから、言ってみれば苦労することなく記憶を引き出してきて書ける。若い世代は間接記憶にたよらざるを得ない部分です。逆に、私でしたら、受験戦争まっただなかの詳細はかけるし、しばしば書いてますが伝統的農村生活も材料になる。まあ、引き出しの違いなのかな、、、




続き(書簡2)
「はたしてfact そのものを人間は認識することができるのだろうか?」ですね。

およそ人間というのは言語レッテルを貼って概念を構築しているようで、いかに言語に頼っているかしみじみ感じたことがありました。たとえばかなりの会話を「予想」で組み立ててるんです。相手がAと言っているだろうなという「予想」のもとでその会話を聞いているので、まったく予想外のことを言われた場合、その部分が勝手にAと置き換えてしまうか、あるいは「○×△」という感じで空白になってしまいます、何回か繰り返してもらって、やっと理解がいくんですが、一回目では無理でした。そういう意味では、文字は凄く助かります。(文字は予想の余地が少ないので)

言葉(言語世界)を失くすというのは、多分、五感の何を失くすよりもあたしにとって恐怖で、もしかしてfactは生のままでは 人間を破壊するのじゃないかという予感すらします。逆にいえば、言語を持ったことで人間はfactへ切り込む武器を手に入れたのじゃないかと。

 まずfact ありきです。そして人間にとって、それはvisionを通してしか認識し得ないものである。つまり、すでに色つきのfactであります。そしてその色つきの度合いは限りなく100%に近いと感じていたりします。
横道にそれますが、”神”という概念=レッテル ですが、これは不可思議な事象全部を一緒くたにまとめてしまった優れたレッテルだと思います。この言語が定義されたことで、人間の認知factは恐ろしく広がったんじゃないかと。(暴論ではありますが)さらに極論を言えば、概念を定義したことで存在を始めたfactもあると感じます。つまり、認識しうるfactとは99%がvisionで色付けされたものであるとするならば、 逆にfactなしのvisionであっても十分な確信があれば認識が可能であり、また十分な確信を与えることができれば周りの人間にとっても存在が可能であり、さらに大勢が確信を持てば、本当はかけらほどのfactもなかったとしてもfactがあるのと同値の効果がある。

と、世迷い事を書いていくと、世の中すべて夢の中になってしまうので、バランスが大事だというあと付けをつけておくわけですが、やはり、ここで 「まずfactありき」に戻ってきまして、いくら色づけされているとはいえ、”現実はある”と信じたいと希望を。。。。わああああああ。あるんですよね。、あります。。全体としては かなりfactに近いところにあたしたちは生存してるんだと思います。


>フィクションの話ですね
を読みながらあらためて思ってたんですが、人間はvisionで認識しています。
で、作品が書かれた場合、そのvisionがいかに魅力的であるか?に作品の魅力がかかってきてますよね。およそすべての認識事象がすでにvisionつきのfact(つまりフィクション)であるとするならば、”リアリティ”も”フィクショナリティ”も同値に魅力の材料の一つであるといえます。